今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.8

「ちょっと太った?」
 白衣のまま飛び出したオレは、なのに開口一番そんなセリフしか吐けなかった。
息切れして、髪を乱して、さぞかし滑稽に見えただろう。必死という単語からほど遠い所で生きてきたオレ。
 多分、これが生まれて初めての、狂おしい程の感情。
「うちまで来るって、どういう了見?」
「折角モト彼氏が来てんだから、茶くらい出せよ」
 透子はちっとも変わらないテンションで「そうね」と言い、オレを家に招き入れた。大きな、大きな家。オレが住んでいるワンルームなんかとは比べモノにならないくらい、大きな…大病院のご令嬢には似合いのお城だ。
 庭があって、吹き抜けの玄関があって、廊下が長くて、リビングは光で溢れていて、勧められたソファは心地よく沈む。
「父さんはいないから、多分大丈夫」
 彼女はそれだけ言って部屋を後にした。
 日吉院長。外科医師界の権威とも言われるその人。透子がその人の娘だった…という事実は、別れてから強く意識した。自分が医療に身を置くようになってから、ちくちくと美しいだけにしたかった思い出を刺激するのだ。
「それから安心して、父さんは知らないし、言うつもりは今後も一切ないから」
「あっそう」
 高級そうなカップに入った紅茶を出しながら、彼女は全てを見通したような表情で笑った。オレが再び姿を見せた理由なんて、ひとつしかない。
 奇妙なものだった。
 どちらも激怒しておかしくないのに。
 どうしてか、穏やかな空気が流れていた。
 興奮して駆けつけたのに、涙まで流したのに。彼女の目を見ているうちに、またどうでもよい気分になってきた。笹部の言う通り、聞かなかったことにしても良かったかも…とさえ思った。
 だけどアルミ缶のように両手で捻り潰されたような心は、そう簡単にはもとに戻らないらしい。
「それから、貴方に認知して欲しいなんてことも、一切思ってないから」
 下腹部は、少し膨れているだろうか。もともとが細いからあまり分からない。
 オレは何度も何度もティスプーンで紅茶をかき混ぜながら、次に言うべき言葉を探していた。
「……透子さぁ、男前だよな……」
「それは褒め言葉?」
「うん。覚悟の決め方が、サムライ並に格好いい」
 潔くて、高貴で。ほんと、オレには勿体ない女だった。
 オレは紅茶を理由にするのを止めて、席を移動し、彼女の横に座った。一瞬咎めるような目をしてオレを見上げた彼女は、けれど、オレの引き寄せた腕に抵抗することはなかった。彼女が自分の腕の中にいる。そんなことだけで、オレはささくれだった心の行き場を得た気がした。
「消耗品に選んでくれてアリガトウ。嫌味に聞こえるかもしれないけど、これは本心。お前の覚悟に利用されて、オレは悔しい反面、とてつもなく嬉しかったりもするんだ」
「蘇枋さん?」
「そして、オレの生殖能力の高さにも感謝したい気持ちだ」
「こんな所で節操ナシの種馬だって自分を肯定しないでほしいんだけど」
「死ねないだろ? ざまぁみろ」
 刹那、彼女がはっと息を呑んだのが聞こえた。
 思わず、笑ってしまった。気付いてしまったんだ。
 どこまでも力強く、胸を張り、前だけを見ているように見えた彼女。それは偽りだ。彼女が見ていたのは、有り得る一番最低な“未来”。
 死を恐れ、そして死の瞬間まで想定して。それが彼女の生き方だった。恐ろしいくらいにネガティブで、後ろ向きの。だけどあまりに真摯的で、みんなダマされていた。こいつは死にたがっているんだ。
「お前が簡単に病気なんかに負けるタマかよ。…絶対産んで、守れ。それが生きる意味になるなら、子供まで利用しろ。死を想像するな。いい女が台無しだ」
「何言ってんの?! 私が死にたがってるみたいに聞こえるんだけど!! 堕ろれせって言ったり産めって言ったり、ほんと、自分勝手っっ……」 
 透子はオレの体をドンっと押して、拘束から逃れようとした。その瞬間見えた透子の顔に、オレは思い切り吹き出し笑ってしまった。
「……初めて見た。泣いてるとこ」
 笑いが止まらなかった。図星を指されて、恥ずかしくて、悔しくて…そんな涙だった。大人っぽい彼女からは想像もできないような、子供っぽい一面。
「キレイに死ねたらよかったのになぁ。友達にも恋人にも壁作っといたら、悲しまれるようなこともないし。でもお前は大センセイの娘だし、腫瘍取り除くくらい簡単にしちゃえるし、アフターケアも万全。弱音なんて吐こうもんなら…ってカンジだろ? 死ぬなら迷惑かけずにって考えで埋め尽くしとかないと…キツかったって……。なぁ、怖いって言わせてやるよ。モト恋人のよしみで。オレのコトを利用したと思うなら、罪滅ぼしに甘えてみろよ」
 透子は、ぽろぽろととめどなく涙を零した。頬を伝い、雫は蒼いスカートに次々に染みを作っていった。
 それでも声は決して出すまいとしている様が、痛々しくて、同時に愛おしかった。
 オレは抱きしめずに、ただ透子の黒い髪を撫で続けた。
「なぁ、シングルマザーでもなんでも、生きる意欲を持ちたいなら、持たせてやるよ。生きる糧になるなら、憎んでもいいから。復讐とか考えていいから。だから、死を望むな。散々まで利用したらいい。どんな感情でもいい。オレに投げつけてみろよ」
「……それなら……」
 泣きじゃくる、彼女の口から漏れた言葉にオレは震えるように頷き返した。
『それなら、貴方のことを好きになりたい』
 利用するのではなく、本心で。オレは愛される権利を得た。