連載小説

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.6〜

一週間母親が帰ってこないことがあった。 あれは小学校に上がる前の年か…ひょっとしたらもう少し幼かった頃かもしれない。 記憶は定かではないが、カギを自分で開けて家に入れるくらいの知識はあったし、蛇口を捻れば水が出て、物を買うにはお金が必要だとい…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.5〜

透子の覚悟に付き合うと言ったのは自分で、利用されつくしたいと宣言したのも自分。 だから、未来が途絶える今際の際まで、自分は彼女の理想の「日吉蘇枋」でいなければならなかった。…そう、自分に課したのだ。きっと彼女の中の自分は、こうであるだろうと…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.4〜

白衣の他でよく見る格好と言えば、“喪服”だった。 いつ何時でも通夜や葬式に出られるように病院に喪服や数珠を一式置いているのを見たことがある。 長く生きていれば、その分別れもたくさんあると彼は言った。しかし、その大半はしがらみにしか過ぎないこと…

日吉蘇枋のための物語〜今また同じ風が吹く〜第一章vol .10

幸い、もう片方の卵巣に残っているという腫瘍はじっと息を潜めていた。 子供の顔を見ずに透子が死ぬ可能性だってあった。 父親になる自覚はなくとも、そちらの覚悟は十二分にあった。 「結婚、しなくても良かったのに」 「……婚姻届を提出した直後に言う台詞…

日吉蘇枋のための物語〜今また同じ風が吹く〜第一章vol .9.5

日吉院長はオレを殴りつけた後、淡々と真実を語った。 「私は堕ろせと言った」 透子はオレのことを言っていないと言ったが、彼の耳にはとうに届いていただろう。娘の交際相手にふさわしいかどうか、オレの行動を少なからず見つめていたに違いない。過去に行…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.3〜

全てを遠ざけて、狂ってしまったオレがそれでも最低限の食事を欠かさなかったのはすべて透子の教育のなせる技だと思う。 あれは、まだ檀が生まれる前だ。 研修から疲れて帰ってきたオレを待っていたのは、透子が作った温かな夕食だった。母親を早くに亡くし…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.2〜

次に、気付いた時には、息子を傷つけていた。 カッターの刃はメスとは違って上手く切れない。そのことに少し苛立ちを感じた瞬間に、少しだけ現実に立ち返った。檀の頬に流れる血。 そこに彼女がいた証を見た気がして、酷く歯痒い思いに駆られた。 猛烈な嫉妬…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.1〜

挿管され、麻酔を掛けられた透子の顔は別人に見えた。 シーツを被せ顔が見えなくなると、もうそれが透子だと思わないでも済んだ。 開腹する時には、オレは一介の外科医に戻っていたはずだった。 肺に転移した癌は、リンパ節にまで及び、中途半端な除去など意…

『冬青』〜第一章〜

「君は、私と穂積の間柄をホモセクシャルなものだと思っているようだが、それは間違いだ」 いくら人気がないとはいえ、病院内で話す会話でないことくらい私にも分かっていた。しかし、はっきり言わないことには彼女は引き下がらないだろう。 「有り体に言っ…

『冬青』〜第一章〜

私は真剣な彼女の質問に、思わず吹き出してしまった。彼女が真面目な顔つきで聞いてくるものだから、余計に我慢が出来なかった。 「何故笑うのですか?」 「いや、失礼……。そんな事を言われるとは思ってもみなかったので」 「けれど、貴方は私が来ることを前…

『冬青』〜第一章〜

彼女が来たのは、彼が死んでからちょうど一年が経った頃だった。西園寺、という名前に私はいまさらながらに緊張を覚えた。いずれ接触はあるだろうと思っていたが、こんなに早くとは考えていなかった。そして驚いたことに、その名を名乗っているのは女性だっ…

『冬青』〜序章〜

その頃の私たちの間柄を明確に示す言葉などなかった。ただ、そう…恋と紛う程に愛していたのだ。 彼は冬の青い空が美しいと言った。透き通った冷たさが、私に似ていると言ったのだ。冷たいなんて心外だ、と詰ると、彼は「下手に暖かいより、ずっといい」と悲…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第二章vol.8

義兄である北岡原夫妻が住んでいるのは、見事としか言いようのない田舎だった。バスは二時間に一本。車がないと生活さえままならない。山に囲まれたその村は、行き場のない未来しか待っていない雰囲気だった。村人の平均年齢を聞いたら、きっとオレは卒倒し…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第二章vol.7

檀の祖父であるその人は、決してオレの事など好いてはいないのだと言う。 改めてそんな事を言われて、面食らったのは、透子の抗ガン剤投与が始まった頃だった。何を今更…と思った。好かれているなど、一度も思ったことはない。 大事に育ててきた一人娘を手込…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第二章vol.6

学校帰りの檀が透子の見舞いに来るのが日課になった。 その病室に居辛くて、彼が来ると適当な理由を付けて仕事に戻るのが、オレの日課になった。 「ねーねー、若先生、さっきのが息子さんですよねぇ?」 たまたま居合わせた看護婦が興味津々といった面持ちで…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第二章vol.5

オレは子供が嫌いだ。特に、頭の良い子が。 いや、嫌いというよりは苦手だ。…険悪な程に。 馬鹿な子ならばいい。聞き分けがない子供ならば尻を叩いて、叱ってやればいいのだから。無邪気な子供ならば頭を撫でて褒めてやればいいのだから。一喜一憂させるのな…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章last volume

夜の闇は、とてつもなく深い。 オレは為す術もなく、立ちはだかる黒い壁の前でひれ伏す。 息もできない程の圧力で、オレを打ちのめし、跡形も残らない程に潰していく。 そんな夢を、何度も見た。 決まって汗だくで起きて、心臓が狂ったように鼓動して、吐き…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.4 2005年07月09日

抗ガン剤の投与は、裏腹に透子の体力をどんどん奪っていくようだった。髪も抜け、食欲が落ち、ひとつひとつの動作が酷く苦痛なようだった。まるで、罰を与えられているかのように思えた。いい加減な生き方をしていたオレに対する罰だ。 自分自身にではなく、…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.3

透子の癌が再発し、そしてそれがもう手の施しようのないものだと判明した時、オレは泣いた。十二分に覚悟していたことだったはずなのに、それでも悔しくて。予想していたことだったはずなのに、それでも苦しくて。 オレは、自分の想像以上に透子を愛している…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.2

無邪気な檀の姿を見ると、焦燥感と、罪悪感と、そして言いようのない敗北感を感じていた。オレは彼が生まれた時から、…いや、生まれる前から、徹底的な敗北を喫しているのだ。 彼の名前は、オレを含む、秋の色の名。 「檀にしましょう」 女の子だと信じてつ…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.1

妬ましい、と彼女は言った。 それは最後に彼女が彼女が発した言葉の中で、一番人間らしいものだったような気がする。死に対する恐怖も、治療に際した痛みも、平然とやり過ごしていた。そんな超越した彼女が唯一見せた、人間くさい感情。 それは妬み。「自分…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.9

白い巨塔なんてイメージではない。ただその病院は巨大で獰猛な化け物のようで…いくら経験値を稼いでも倒せない敵のようで…凶悪な程の威圧感でオレの前に立ちはだかっている。 それでも単身乗り込むことに躊躇はなかった。 「研修医の、東堂蘇枋です」 アポナ…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.8

「ちょっと太った?」 白衣のまま飛び出したオレは、なのに開口一番そんなセリフしか吐けなかった。 息切れして、髪を乱して、さぞかし滑稽に見えただろう。必死という単語からほど遠い所で生きてきたオレ。 多分、これが生まれて初めての、狂おしい程の感情…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.7

彼女の悲しい覚悟を知り、ただオレは一度だけ涙を零した。 どこまでも杜撰で、だけど想像以上の人間くささで立てられた計画は、オレを走らせるに十分すぎる程の意味を持っていた。 『腫瘍が見つかったのは結構前のことなの。……多分、貴方とつきあいだしたの…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.6

研修先の病院の廊下で、唐突にオレは呼び止められた。彼女の親友だと言う笹部可楠と出会ったのは、それが最初だった。友達がいないわけではないが、透子は誰ともつるまないでいた印象が強い。「親友」なんて重い名称の人間がいるとは想像だにしなかった。も…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.5

臨床研修が始まり、忙しさに追われる日々が続いた。彼女と会う機会も激減した。だが、もともと毎日電話するような甘い関係でもなかったから、特に支障はなかった。休日が合えば会って飯を食って肌を合わせる。それで十分だった。浮気もあの時以来していない…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.4

一週間彼女の顔を見なかった。 連絡さえ付かず、無言の反抗かと勘違いをし、ならば自分も…と昔馴染みの女と寝た。彼女と付き合い始めてから、他の女に手を出さなかったと言えば嘘になる。ただ、自らアプローチを掛けて、浮気をしたのはこれが最初だった。 そ…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.3

爪が食い込む程の握り拳を作りながら、だけど勝ち誇ったような笑顔で、彼女は「つきあってもいいよ」と言った。授業の終わったばかりの講義室はざわめきを残していて、オレ達の会話が隅々まで浸透することはなかった。 「……どーゆー心境の変化?」 散々、こ…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.2

出会った時と同じ真剣な眼差しで、そして迫力で、平手打ちを喰らわせて彼女は「最低」と吐き捨てた。パンっという肌がぶつかる音に一瞬食堂中が静まり返った。 「最低ですかね?」 「じゃなきゃ悪趣味」 「はいはい、すいませんね、悪趣味でいい加減で下品で…

今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.1.5

「オレと付き合わない?」 盛り上がっていた会場が波紋を投げかけたかのように、一瞬で静まり返った。新学部生の歓迎会。オレのことをよく知る友人達は「また始まった」といううんざりした顔をして、再び酒を飲み始めたが、センパイ方は面白い話題を得たとで…