今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.1〜
挿管され、麻酔を掛けられた透子の顔は別人に見えた。
シーツを被せ顔が見えなくなると、もうそれが透子だと思わないでも済んだ。
開腹する時には、オレは一介の外科医に戻っていたはずだった。
肺に転移した癌は、リンパ節にまで及び、中途半端な除去など意味を成さないことを表していた。抗ガン剤の効果も空しいものだ。
これが一般の患者ならば、その時点で手術の終了を言い渡しただろう。
これ以上いじる必要はない。後は延命のための抗ガン剤投与をどうするか、家族と相談するだけだ。
だが、その瞬間にエゴが生じた。
ほんの少しでも、何かを…と。
その後のことはよく覚えていない。
溢れ出る血を見て、終わりだと確信した。それ以外の記憶は曖昧だ。
実際オレは心神耗弱状態だった。メスなど握れるような状態にはなかった。
本当はもう随分前からおかしくなっていたのに、周りはこの時はじめてオレの不調に気付いた様子だった。
透子が死んだ。
きっとオレが殺した。
もう、二度と会えない。
もう、二度と話をできない。
叫んだのか、泣いたのか、笑ったのか、自分でも分からなかった。
極限までボリュームを落としたラジオのように、周りの声は不鮮明だった。
そして、オレは世界を遠ざけた。自分であることを放棄する前に、全てのものを離したのだ。