今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.2


 無邪気な檀の姿を見ると、焦燥感と、罪悪感と、そして言いようのない敗北感を感じていた。オレは彼が生まれた時から、…いや、生まれる前から、徹底的な敗北を喫しているのだ。
 彼の名前は、オレを含む、秋の色の名。
 
「檀にしましょう」
 女の子だと信じてつけていた名前…というわけではなかった。彼女は、自分の腹の中にいる子が男だと知った瞬間に、そう言い放ったのだ。
「男にマユミはどうかと思うけど?」
「女だったらマユミなんてつけないわよ」
 何を馬鹿なことを言っているの、という風情で彼女は言った。時々オレはそんな彼女についていけなくなる。付き合えば付き合う程、日吉透子という人間が分からなくなるのだ。夫となった今でさえ、オレは彼女の内側を模索し続けていた。
 大人かと思えば意外に意地っ張りだったり、真面目かと思えば危険なことを平気でしたり、違う世界に生きているとしか思えない数々の言動を経験してきた。もちろん初対面でコーヒーをぶっかけられたことのあるオレは、たいしたことでは驚かない免疫はあったけれど。
 ただ、少し前と違うのは、その一つ一つが好きだと思えることだ。
 透子はオレに対して遠慮がなくなった。躊躇していた感情を全てぶちまけてくる。利用されると決めたオレには、願ったりの変化だった。
 そのくらいまでに、オレ達の関係は進展していたと言うべきだろう。
「紅色と、黄色。紅色と青緑の『竜胆』でもいいんだけど。でも字があんまり好きじゃないし、名字との釣り合いも悪いしね。だから『檀』」
「だからって…ちょっと待てよ。全然理解できないんだけど。その紅色とか黄色とか、何の話?」
 丁度窓の外は、その色に染められていた。遠くの山々は、少し遅い紅葉の季節を迎え、黄色や橙や赤といった色でにぎわっている。しかし彼女の目線はそんなものには向いていなかった。
「自分の名前に興味薄いのね。蘇枋さん。私、初めて貴方の名前耳にした時から、なんて綺麗な名前なんだろうって思ってたのに。本人が無自覚って…これ、いいのかしら」
 彼女は目を細めた。ただ、ひとつだけ分かったことがあった。オレのことをやたらと名前で呼んでいたのは、親しみを込めてのことじゃなくて、名前が気に入っていたからなのだろう。でもオレは透子から「スオウさん」と呼ばれるのが嫌いじゃなかった。
「…オレの名前に意味なんてないぜ。スオウの花が咲いてたとか、そんなことは聞いたけど。あーそう、ろくでもない母親だったけど意外に花とか木とか好きだったんだなー…くらいで」
「それは花蘇芳。でも私が言ってるのは、樹木の話じゃありません。檀も木の名前のつもりじゃないから」
「…?」
「私だって理系だからあんまり知らないけど、それ、襲の色の名前よ」
「かさね?」
 聞き慣れない単語に、オレが眉をひそめると、得意げに透子は笑った。
平安時代以降の装束の色の組み合わせのこと。蘇枋っていう色があるんだけど、知らなかった? 深くて暗い紅色。それと、黄色との組み合わせが『檀』なの。反対色の組み合わせで、目に痛いけど私は好きだな、と思って。女の子なら、もっと違う名前にするけど、男の子なら決定。…父親を越えるように、父親を包括しちゃう名前に。どう?」
 オレは「いいよ」と答えた。反対する気はもとよりない。彼女が生きるために生まれるくる子だから、彼女の思う通りにするのがいいと思う。消極的な意見だと透子は怒るかもしれないけれど、利用される立場のオレには口を挟む権利などないはずだ。
「それから、貴方のお母さんを悪く言うつもりはないけど、私はスオウの木はあまり好きじゃなくなったし……これも調べてみて分かったことだけど」
「へぇ? なんで? 綺麗な花だってあの女は言ってたけど?」
花言葉が悪い」
 オレは吹き出してしまった。透子はそんな些細なことで、嫌いになってしまえるのだ。簡単なことで好きになるのと同様に。
 羨ましい生き方だと、その時真剣に思った。


 そして花蘇芳の花言葉が、「裏切り・エゴイズム」だと知ったのは、彼女が死んでから随分経ってからのことだ。