日吉蘇枋のための物語〜今また同じ風が吹く〜第一章vol .10

 幸い、もう片方の卵巣に残っているという腫瘍はじっと息を潜めていた。
 子供の顔を見ずに透子が死ぬ可能性だってあった。
 父親になる自覚はなくとも、そちらの覚悟は十二分にあった。


「結婚、しなくても良かったのに」
「……婚姻届を提出した直後に言う台詞か?」
「ちゃんと生まれてからでも良かったかな…と」
 もう随分目立つようになった腹をなでながら、彼女は言った。
 考えていることは、だいたい分かる。人前では決して漏らさない「願望」が、2人だけの時にたまに出るのだ。そのことに優越感を感じつつも、惑わされないようにしようとすぐに決意した。
「……オレはまぁ別にカタチにはこだわらないし、透子が望むようにやればいいって思うけどな………常識的に、もう少し親孝行すべきだ」
 オレ達は、とほのめかした。
「ギリとは言え息子を作ってあげただけでも孝行娘だと思うんだけどなー……」
 オレは今日から「日吉蘇枋」になった。婿入りというやつだ。「病院をくれ」と言ったのだから、当然な成り行きだった。オレが透子の夫で、日吉病院の後継者なのだと周りに知らしめるにはもってこいだ。ただ、そのことを良く思わない輩も多いだろう。
「…だから、むしろ、なんていうか……どこの骨とも分からない男の子を産んだ女を愛してやる…みたいなのの方が株は上がったかと思って」
 何を言い出すんだと思えば、どうやら透子はオレの心配をしているらしい。
 つくづく馬鹿だ。男前な決断は下すくせに、人を頼るとか、甘えるとか、そんなことができないらしい。
(院長、ちょっと育て方間違ったんじゃないですかね)
 戦前の男子のような…硬質でまっすぐな気質は、この温い世の中に生きる女性として不必要どころか、たまに邪魔になったりしないだろうか。
「透子、もう一度だけ言うけどな……オレのことは利用しつくしたらいいんだ。オレはそのために側にいると思ってくれないと殴られ損だ」
「うーん…それだととんだ悪女になった気分なんですけど?」
 透子は渋い顔をしたが、オレは先手必勝とばかりにさらに言い重ねた。
「将来的にも、離婚なんてしない。いいか、子供は元気に産め」
「元気な子を産めじゃなくて?」
「……これで合ってる。それで、元気な母親でいろ。……オレはどうして結婚したのか子供に聞かれた時、説明できる自信がないから、貫け」
 普通に嘘をつけばいい。「愛し合っていたから結婚したんだよ」と。だけど、オレはそうしたくなかった。透子のことは好きだった。潔さに惚れたのは間違いない。だけど、それと結婚とは別だ。かと言って、子供が出来たから結婚したと思われたくもなかった。むしろ、病院が欲しいから子供を無理矢理作った…などと思わせるくらいの方が正解な気がした。だが、いずれにせよ真実を理解できるとは思えない。子供に嘘を吐くのに抵抗があるとかそういうことではない。ただ、母親の本当の姿を知るべきだとは思うのだ。知る権利があると思うのだ。
「そうね…蘇枋さんに子供の顔を見せる前に死ぬわけにはいかないわよね……。あなたが我が息子だか娘だかに面した時、どんな顔するか楽しみだもの」
 自分が、自分の息子だか娘だかの顔を見たいとは、決して言わなかった。もちろん、見たくないはずがない。ただ、この頃の透子はまだ「最悪」を念頭に置いてしか物事を見ていなかったのだ。透子なりの強がりは、気付いた者には少し痛かった。
「あ、そうだ!! 友達に結婚祝い代わりにカケに買った分、もらいましょうか」
「お前、自分も300円払ってただろう?」
 カケはオレの一人勝ちだ。


 結婚式も、新婚旅行もないオレ達の記念日は特に思い入れがあるものではなかった。
 ただ、友人達が電話でカケに負けたことを悔しそうにしていたことが唯一の思い出だった。