日吉蘇枋のための物語〜今また同じ風が吹く〜第一章vol .9.5

 日吉院長はオレを殴りつけた後、淡々と真実を語った。
「私は堕ろせと言った」
 透子はオレのことを言っていないと言ったが、彼の耳にはとうに届いていただろう。娘の交際相手にふさわしいかどうか、オレの行動を少なからず見つめていたに違いない。過去に行き着くのは簡単だ。女の元を渡り歩き、学業に重きを置かなかった……そんな数年前のオレのことを、良く思わないわけがない。堕ろせと言った彼の心情はいやという程理解できる。
 だが、透子は父親の意見を拒否した。そして「堕ろせよ」と言ったオレの意見さえも。

 残された片方の卵巣。投薬。妊娠し、無事に出産できる可能性はどのくらいだろう?

 リスクを冒しても、透子はチャレンジしたかったのかもしれない。オレは女じゃないから、想像するしかないが、理由はどうあれ、授かった命を無惨に散らすことなんて普通は考えられないだろう。

(待て……違う。逆だ)

 オレは自分で気付いていたじゃないか。透子がなぜ堕ろさなかったか。その覚悟の方向は、まったく逆だ。
 親友である笹部でさえ、普通の発想しかなかった。「後腐れのないような人間としかつきあえなかった」……それはある意味で正しい。だが、本人はもう少し先を見据えていた。

 透子は死にたがっている。

 迷惑を掛けずに、死ぬのが彼女の本来の夢だった。きっと腫瘍が見つかった時にすべてを諦めた。後はただその一念で生きていたんだ。極力少ない人間にしか、悲しみを味わわさないため。だとすれば、妊娠も彼女の一つの自殺へのシナリオに違いない。もちろん、可能性の低いカケだ。うまくいかなくても良かった程度の……
(よく考えろ…)
 死につながる道は……?
「片方残した卵巣は……彼女が子供が欲しいと思った時のため…ですよね? ひょっとして、それを残すように言ったのも彼女じゃないんですか?」
 彼女なら危険性があるなら全摘すると言うだろう。反対側の卵巣にも転移していることはままあることだ。もちろん患部だけの摘出という場合もなくはない。患者の年齢が若く、強く妊娠を望む場合などは摘出を避ける医師も多い。全摘すれば転移の可能性は格段に減るが、ホルモンバランスが急激に崩れて弊害が起こる。そのことを考えれば、少しでも無事ならば残す道を…と考える者が多いのが現状だろう。
 そこでふと思いついたことに、オレは身震いした。
「……ひょっとして、もう片方の卵巣にも腫瘍が…?」
 日吉澄夫は静かに頷いた。
 それで符号が合う。
 透子は子供が欲しかったわけじゃない。死ぬのに立派な理由が欲しかったんだ。
 いやになる程雄々しい。
(どこの戦士だよ、透子……)
 勝手に死ぬんじゃない。子供を守って死ぬなら、大義名分ができる。
「父親としての感情だ。娘には生きていてほしい」
 その当然をないがしろにするように。
「腹の子の父親がどうこうというのではない。ただ、私は透子に生きていてほしい。だから堕ろせと言った」
 そして残っている卵巣を摘出するなり、さらなる投薬を続けるなり……。
 ほんの36週間。ただ、その間のことなど、誰にも分からない。
「だが、お前は違うんだな」
 オレは利用しろ、と言った。
 生きろと諭したんだ。覚悟すれば、それにつきあうと。
「透子が子供の顔を拝めないような事態は……」
(それはそれで透子の勝ちとなるんだろう)
「あり得ない」

 このカケに勝たせてはいけない。

「孫の顔、見たくないですか? 院長先生」
 日吉院長は、複雑そうな顔をした。娘の命と孫の命を秤に掛けさせたら、降参するしかないだろう。
「だから、病院を。オレは彼女が死なないなら、何だってやります。父親にだってなってみせる」


 その決意は10年後に簡単に揺るいだけれども。