今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.9

 白い巨塔なんてイメージではない。ただその病院は巨大で獰猛な化け物のようで…いくら経験値を稼いでも倒せない敵のようで…凶悪な程の威圧感でオレの前に立ちはだかっている。
 それでも単身乗り込むことに躊躇はなかった。
「研修医の、東堂蘇枋です」
 アポナシの面会に、彼は良い顔をしなかったはずだ。けれど、大病院の院長が娘の恋人だった男の名前を知らないはずがない。その名に傷が付かないように、細心の注意を払って、彼はオレを監視していたに違いないから。だからこそのカケだった。
 透子はオレのことを言うつもりはないと言っていたが、きっと彼は知っているのだろう。彼女の腹の中の子は誰の子なのか。完全な情報はなくとも、勘付いて当然だ。それを逆手に取っての、面会。
「お忙しい所、お時間頂いてすいません」
 大先生は、噂に違わず穏やかそうな面持ちでオレを迎え入れた。にこにこと笑顔を絶やさない院長は患者からも絶大な人気を誇っている。だが、オレはその内面がとてつもなく不機嫌なことを知っていた。
 面と向かって彼と話したことはなかったが、改めて見てみると、その表情の作り方は透子のそれととてもよく似ている。嘘でも笑えるのだ。この手の人間は。そして、困惑や苦悩を外に晒さない。そうすることが美徳であるように、そうできないことが醜悪であるように、自分を戒めている。
 それがきっと、彼を、そしてこの病院を大きくした成功の秘訣のひとつなのだろう。だからこそ、オレにはどこまでも怪物にしか見えなかった。
「単刀直入に言います」
 ただ、目を背けないことで精一杯だった。
 反らした瞬間に溶かされてしまうのではないかという恐怖で埋め尽くされた。
 けれど彼女からもぎ取った“覚悟”の破片は、そんなものには屈しなかった。
「この病院を、オレに下さい」
 日吉澄生は、一瞬目を大きく見開いた。けれどすぐに苦笑してみせた。まるで小さな子の失敗を見てしまったかのような、高い所からの笑いだった。
「間違えたなら、言い直していいぞ」
「病院を下さい」
 彼が言い切らないうちに、オレはそう繰り返した。
 彼の細い瞳が、すっと温度をなくしていくのをありありと感じた。
「娘の話ではないのか? 娘をくれと言いに来たかと思っていたのだが?」
「違います」
 そんなことをするために、なけなしの勇気を出したりはしない。一生に一度あるかないかの大博打に出たりしない。
「病院を、欲しいと思ったんです」
「責任を取って結婚します、くらいの言葉を想像していたが……駄目だな、予想外過ぎて、返答に困る。君は、一体何を言いたいんだ?」
 不可解だ、と彼は腕を組んで首を捻ってみせた。
「娘に近づいたのは金目的だったという意味か? なら、そんなことをわざわざ私に公表してどうする?」
「違います」
「じゃあなんだ? 人質にでも取った気か? 娘を楯に、将来の地位を約束でもしてほしいか?」
「それも違います」
 オレは溜息をついた。そんな俗物的な理由で、こんな酔狂な真似はしないと、彼はどうして分からないのだろう。
「いいですか? 責任を取ろうなんて気持ちはありませんし、金目的でも地位欲しさにでもありません。ただ、オレはこの病院が欲しい。透子の為に、他の誰でもない、オレが利用したい。透子に利用されるには、必要なんです」
「透子のため?」
「絶対死なせませんよ。研修医の分際で偉そうなコトは言えませんが、オレはこれからの人生の全てを透子に賭ける。そう決めました。だから何度も言いますが、責任とか、金とか、名誉とか、地位とか、正直どうでもいいんです。オレは透子の覚悟のためだけに生きる。その為に必要なものだけを選んでいるんです」
 まず、彼女の病気をこのまま埋没させておくだけの医療機関。そして、十全な出産体制と保育施設。彼女を守る家と、彼女を支える食事。彼女を愛する人と、彼女を見守る人の保全。それがオレの欲しいもの。
 節操なしで、軽薄で、非道で…そんなどうしようもないオレを、好きになりたいと言った透子に、オレはオレができる全てのことをしようと思った。
 残りの全ての人生を賭けて、彼女の覚悟と付き合おうと思った。
 強くて、儚い、彼女を真っ向から愛することを決めた。
 日吉医師は、長い息を吐いた。そして二度、三度と瞬きをした。頭が良い人なのだ。オレのこの、滑稽に歪んだ感情も見抜いてくれたのだろう。
 そして彼は悠に三分ほど黙った後、言った。
「十年。…十年だけ猶予をやろう。その間に、私の認める医師になってたら、病院は名実ともにお前のものにしてやる。いなければ、その時点で消えてくれ。その間は、お前の出来る範囲で透子を助けてやれ。私もその間は見捨てない。分かったか?」
「はい」
 想像以上の唐突さで、オレは彼からの信頼を勝ち得た。
「ああ、それから最後に。……一度だけ殴らせろ」
 痛みと供に、彼女への今の思いを心に焼き付けた。