今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.6

 研修先の病院の廊下で、唐突にオレは呼び止められた。彼女の親友だと言う笹部可楠と出会ったのは、それが最初だった。友達がいないわけではないが、透子は誰ともつるまないでいた印象が強い。「親友」なんて重い名称の人間がいるとは想像だにしなかった。もちろん、そんな親友からしたら、オレのような人間が「恋人」をやっていたのが信じられないのだろうが。
「透子、産む気よ」
 前置きも何もない喋り方は、透子とよく似ていた。無駄を一切排除した会話だ。人の目すら、気にしていなかった。側にいた担当の医師の方がびっくりして、「先に行っているから」と気を遣った程だ。あまり騒がしくしてはいけないと踏んだのか、その場はそれだけの会話だった。しかしその数十分後、彼女は内線電話を使うまでしてオレを呼び出した。
 笹部は人気のない廊下で、剥がれかけた床のタイルを見つめたまま、ぼそっと言った。
「堕ろせって…言ったんだって?」
「それが何か?」
「噂に違わず非道な人間だと思っただけ。有名だし。軽薄でいい加減って」
「そりゃどーも」
 そういうむかつく返答をしたのに、笹部は激昂することさえしなかった。
「透子は産む気よ」
 そしてもう一度言った。
「別に私がこんなこと言う必要はないと思うけど…会っちゃったんだから言うわ」
 口止めもされてないし、と笹部は付け加えた。
「堕ろしてないんだ」
 よく考えたら、あの電話から三ヶ月近く経っていた。あの時が何週目だったかは知らないけれど、もうおそらく中絶は難しい時期だろう。もう終わったものだと思っていたから、オレは考えることさえしていなかったのに。
「貴方、透子のコト知っていて、よく堕ろせなんて言えたわね?」
「あいつを知ってるからこそ、目標を遮ることの方が悪だと思ったんだよ」
「目標? えっ……ちょっと待って、話が噛み合ってない……」
 笹部は逡巡したように視線を漂わせ、そしてはっと口元に手を当てた。彼女の持っていたファイルやノートはばさばさと廊下に散らばった。けれど彼女にはそれがまるで見えていないようで…ただ穴が開くかと思うくらいにオレの目を見ていた。
「……ひょっとして、聞いてないの?」
「?」
 オレは首を捻った。話が噛み合わないと感じているのはこっちだ。
「やだ、そんなのあり得ない……。恋人じゃなかったの?」
「はぁっ? さっきから一人で劇的なヒロインみたになってるけど、意味不明。笹部さん、何が言いたいワケ?」
 刹那、笹部は癇癪を起こした子供のような素振りでオレの胸をどんどんと叩いて、そして全体重を掛けて突進するようにオレの体を壁に押しつけた。背中が窓枠に当たって、痛みが走る。
「透子病気なのよ」
「……病気?」
 初耳だった。確かに色は白いし、細いし、そう体は強くなさそうだったけれど、醸し出す雰囲気がとにかく鮮烈で。しゃんと伸ばした背中とか、とても病気なんて寄せ付けないカンジがしていた。風邪をひいても気弱になることなんてひとつもなかったから、オレは感心していたくらいだ。
「……何の?」
 恥を承知で聞いた。
「それも知らないの…? えっ…だって、気付いてたんでしょう?! お腹の手術跡も、薬飲んでたことも……」
 それは知っていた。だが彼女は労りの言葉なんて求めていなかったし、そしてオレも他人のことにかまけているヒマはなかった。
「別にたいしたことはないってはぐらかされたから追求しなかった。薬なんていちいち確認するかよ」
「最低っ!! それでも彼氏?!」
 彼女はもう一度オレの胸をどんっと叩いた。しかし、その握り拳はゆるゆるとすぐに力をなくしていった。
「ごめん……私が怒る権利ないや。透子が言わなかったんだもんね…」
 だけど悔しい、と。笹部はくちびるを噛みしめた。
「悔しいけど…でも、それが透子の考えだったなら……どうしよう、私透子の覚悟を蔑ろにすることになる……」
「覚悟?」
 聞き慣れた単語だった。彼女の抱えていた、覚悟。結局知り得なかった、わかり得なかった、その真実。
 けれど笹部はそれを伝える前に、ふるふると首を左右に振り、自分の顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「ごめん……今日私と会って話たこと、全部忘れて…じゃないと私っ……私っ…」
「おい、ちょっと落ち着けって…。笹部さんがそれで良くても、こっちは不消化極まりないって。……で、透子は何の病気なの?」
 彼女の口から聞いたその病名に、オレは少し狼狽えた。
 どんなものか詳しく分からない一般人なら確実にパニックになっただろう。その点では、自分が医師になるために日々奮闘していて良かったと思った。
 そして同時に、その病気の概要を知ってしまっている身として、自分が酷く浅はかな人間だと思い知らされた気がした。
『卵巣癌…それで右の卵巣手術で摘出してるの…』