今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.1


 妬ましい、と彼女は言った。
 それは最後に彼女が彼女が発した言葉の中で、一番人間らしいものだったような気がする。死に対する恐怖も、治療に際した痛みも、平然とやり過ごしていた。そんな超越した彼女が唯一見せた、人間くさい感情。
 それは妬み。

「自分の夫にこんなこと言いたくないんだけど…気が狂いそうなくらい、妬ましい」
 あまりにも唐突な告白だった。味気なさそうに出された昼食を食べながらの会話だ。オレはいつものようにその傍らで、疲れてうとうとしそうになっていた。目が覚めたのは、彼女が「憎らしいとも言える」と言葉を続けたせいだ。
 実際に、透子はオレのことを睨んでいた。
 大学時代にはよく見た、懐かしい表情。オレは束の間、昔の思い出に浸った。
 あの頃から、もう十年近く経つ。
 ここが病室でなければ、例えば日の射し込む講義室なら…オレ達はまた馬鹿みたいな応酬を始めていただろうか。
「殺してやりたいくらい妬んでるの。それに、檀にも同じ感情を抱いててね。母親失格かな?」
「さすがに殺されて本望だとは思わないけど。…何だ? 妬まれるようなことしてるか? オレ達が病気じゃないことを妬んでいるわけじゃないんだろう?」
「ふふふふ、そんなつまらない理由じゃないから」
 本来ならば、死を直前にした普通の人間は一度くらい身近な人間の健康を羨むものだろう。けれど透子はそんじょそこらの女とは違う。
 ただ一つだけ、思い当たる理由があるとするならば、それはオレの今の状態。彼女が成し得なかった夢を、オレは叶えた。彼女が歩むべき道を、オレは着実にまるで塗りつぶすかのように歩いている。今、白衣を着て、疲れて眠りこけそうになっている…そんな「医者」としての自分を、彼女は妬んだに違いないから。
 数年前、小難しい心臓のバイパス手術をこなしてから天才外科医だと評されるようになった。けれど、そんな褒め言葉を掛けられる度に、オレは思うのだ。彼女ならば、もっと素晴らしい医者になっていただろう、と。技術的にも、人間的にも。細かい作業を技巧的にこなすだけの自分とは違い、きっと細やかな気配りのできる彼女は医者として成功したに違いない。そう、彼女こそが、確固たる地位を約束されているはずだったのに。
 彼女の「本来通るはずだった未来」を想像しては、苦い気分になる。想像の中での彼女は、完璧で、オレなどは到底適わない人間なのだ。こうして病室で話をしているだけで負けていると感じるのに、医師として活躍していたとしたら、どうだろう?
 その時、透子の持っていたスプーンが手からすべり落ち、床に派手な音を立てて転がった。
 オレは我に返る。
 オレは医者で、ここは病室で、透子は死を前にした病人。
 オレは軽薄な男で、そこは学校で、透子は気丈な美人だった…そんな過去はあっても、あの頃想像していた未来はここにはない。
 それを確かめるようにして、オレは転がったスプーンを拾った。それを受け取りながら、透子は溜息をつく。
「蘇枋さん、勘違いしてるようだから言うけど」
「?」
「勝手に想像して納得するのは止めて。私が妬ましいのは、多分貴方が考えているコト以上のことよ」
 透子は睨むのを止めて、にっこりと嘘のように笑ってみせた。色味の失われたくちびるが三日月形になるのが、痛々しくてオレは答えを促した。
「…で、何だよ?」
「檀の成長を見られること」
「……は?」
「殺してやりたいくらい妬ましい。貴方は檀の成長を見られるんだもの。これから、ずっと。小学校を卒業して、中学、高校、大学も行くかな? 就職して、お嫁さんもらって…そのひとつひとつ、全部を貴方は見られるんだもの。羨ましいを通り越して、悔しいし、嫉妬しちゃう」
 死を覚悟して、認めてしまっている彼女の、唯一心残りはそこだった。
 一人息子の檀。彼を生きるために利用しろと諭したことが懐かしい。
 けれど、もう今同じセリフを吐くことはできないから。
 そして、「お前の代わりに」なんて口先だけのセリフは言いたくもなくて。
「オレが浮気してても嫉妬しなかった女がねぇ」
「檀のこと愛してるもの」
「あっそう」
「だけど檀のことも同様に妬ましいの。蘇枋さんのこれからを見ることが出来るんだから」
 こうして不意に漏らされる、オレに対する思いに、オレはガラにもなく狼狽する。未だに思うのだ。そんな風に愛される価値など、オレにはないと。
「シワが増えて、白髪も増えて、50になって、60になって…素敵な老紳士になる所を私も見たかった」
 それのどこが楽しいんだ、と思った。けれど、あまりに楽しそうに微笑むから…素直に見せてやりたかった、思った。
「でも、私は若くて美しいまま思い出に残るの。ボケ老人になった所なんて想像させやしないんだから」
「…ああ、そうだな」
 ポケベルが急を告げるのを理由に、オレはそう空返事した。
 気の利いたことなんて、結局何ひとつ言えないままだった。