今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.3


 透子の癌が再発し、そしてそれがもう手の施しようのないものだと判明した時、オレは泣いた。十二分に覚悟していたことだったはずなのに、それでも悔しくて。予想していたことだったはずなのに、それでも苦しくて。
 オレは、自分の想像以上に透子を愛しているのだと、その瞬間気付いた。
 誰もいない家。静まり返った夜。蛍光灯の明かりがあまりに無機質に、勝手に持ち帰ったカルテとレントゲンを照らしていた。定期的に検診をしていたのに、病気は巧妙に隠れた所で、しかし確実に彼女の体を蝕んでいた。
 失うことはないと、どこかで自分を過信しすぎていたのかもしれない。オレの落ち度だ。オレは彼女を殺してしまう。まだ約束の時にも満たない。オレは彼女のきちんとした夫にさえなれていないのに。まだ利用され尽くしていないのに。
 最初に声を殺して泣いたのは、卑下する気持ちと、懺悔の念があったからだ。
 夏。
 暑かった。頭の芯が溶けてしまうような気温で、オレはそれを言い訳に、少しだけおかしくなった。自分を手放すことを許してやったのだ。

 1日目は泣いた。結局声を出さずに泣くこともできなくなって、泣き叫んだ。声が掠れて、これ以上ないという程に泣いたのに。…それでも涙は枯れなかった。誰にも見られないように、一人きりで。眠ることも、食べることもぜずに泣いた。
 思い出が痛くて、そしてまた泣いた。
 2日目は足掻いてみた。泣くことで何がどうなるわけではないと気付いて、足掻いてみせた。なんとかして助けることができないかと、調べまくった。自分の記憶から、病院の過去のカルテから、海外の症例まで…それこそ膨大な資料に目を通した。信じてはいない東洋医学の漢方にさえ、手を出そうとした。本人の希望ではなく、自分自信の「願い」から、できる限りのことはしようと足掻いていた。
 3日目……それが、おそらく一番卑怯で情けない選択だっただろう。

「スオウ! お見舞い来たよん。大丈夫?」
「……さぁ、どうだろう。今日から抗ガン剤投与だから、体調は良くはないだろうな。悪くなる一方だと思う」
「ちゃうちゃう!! 透子さんのコトじゃなくって、おまえの見舞い」
 水沼正太郎はそう言って、花束なんかを差し出して来た。そんな冗談に乗れるほど、オレはヒマではなかったし、器量の広い男でもなかった。
「あいにくオレは健康そのものだ」
 そう言い放ち、視線を逸らした瞬間……
「ちょーっぷっ!!」
「ってぇーっ!! 正太郎!? いきなり何だ!!」
 オレの頭目がけて飛んできたのは腕……正しくは、平手を縦にしたもの。横から勢い良く下ろされた衝撃に、オレに視界は一瞬ブレた。後頭部にずくずくと鈍い痛みが残る。オレが睨むと、正太郎は、
「あ、いいお顔」
 こいつは、学生時代から変わらないテンションで、オレの周りをうろつく、腹立たしい男だ。オレの親友だと広言してはばからないが、こちらは良い迷惑。常軌を逸した格好と、行動と、言動で、それで医者をやっているのだから信じられない。それが腕がいいのだから、ますます信じられない。そんなヤツに懐かれている現状も、冗談はよしてくれ、と言わんばかりのものがある。
 実は正太郎はオレより年上なのだが、敬語を使うことは出会って3日で止めた。尊敬するのも面倒なくらいの相手なのだ。
「うんうん。ええ顔になった。それでこそ日吉蘇枋。なーのーにー、顔暗い! 陰気!!」
「もともとだろう。だいたい妻が病気で入院してるってのに、明るい顔ができるか」
「なら、それらしく慌ててみろよ」
 いつにない、厳しい口調だった。彼の普段の喋り方は奇妙な関西弁なのだが、真剣な時や怒った時は標準語になる。まるでおちゃらけている時と使い分けているかのようで、オレはつくづく食えない男だと思っている。
「正太郎? 何マジになってんだ。別に怒られるような事、した覚えはないけど。何が言いたい?」
「……腹立つなぁっ!! 一回殴らなきゃ分かんないってか?!」
「分からない」
 “ドコっ”という音が耳のすぐ近くでした。そして反動でオレはその場に尻餅をつく形になった。場所が場所だったために、看護婦達が騒ぎ、駆け寄って来た。素っ頓狂な格好をした男が、次期院長を殴ったのだ。ともすれば大問題に発展する。オレは即座に判断して、看護婦達を制止させ、何でもないただのケンカだと口止めをしておいた。くちびるの端が切れているのか、口許が少し熱を持っている感じがした。きっと明日は痛々しく腫れて、数日したら紫色に変色していくだろう。大きめのマスクがあっただろうか…そんな風に、オレは淡々と考えていた。そして、そういえば、と思う。
 人に殴られたのは久々だ。
 そして正太郎から殴られたのはこれが初めてだった。
 しかし殴った本人はというと、まるで子供のように鼻水まで垂らして泣いていたのだ。自分が殴られたわけでもないのに。
「……正太郎……?」
「スオウ……そんなんしたら駄目だよ」
 オレは彼が泣く理由が分からなかった。

 3日目以降…オレは自分を偽って生きた。
 治療の時は、透子はただの一介の患者に過ぎないと思いこみ、
 二人でいる時は、透子は病気ではないと思いこんだ。
 そうすることでオレは自分を保っていた。
 自分を徹底的に騙すことに成功したオレは…正太郎が自分を不憫がって泣く意味に気づけなかった。