今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜vol.5

 臨床研修が始まり、忙しさに追われる日々が続いた。彼女と会う機会も激減した。だが、もともと毎日電話するような甘い関係でもなかったから、特に支障はなかった。休日が合えば会って飯を食って肌を合わせる。それで十分だった。浮気もあの時以来していない。あの蘇枋が、と友人達には驚かれ、信用されていないが真実だ。そのくらいに、毎日をクリアすることに必死だったのだ。
 2か月会えないというのもざらにあった。次に透子の体を見ると下腹部に手術跡ができていた…という事件もあった。その時はさすがに激怒したが、一週間やそこらの入院で大事にしたくなかった、という彼女の気持ちはもっともだった。オレも疲労で倒れた時に、わざわざ彼女に連絡を入れようとはしなかったのだから。
 思えば、オレ達はつきあっていながら、知らないことが多すぎた。自分のコトを打ち明ける勇気も、そして相手のことを知る勇気も、オレ達には欠落していたのだと思う。だからといって、どうなるわけでもないと……その時までは思っていた。
 彼女の妊娠を知ったのは、まだ暑さの残る9月の頭だった。夏休みなどほとんど皆無でかけずり回っていたため、その日もオレは朦朧とする頭で電話に出た。
 透子から電話が掛かってくることなど滅多にない。だからすぐに何か厄介なことがあったのだろうと判断した。正直、「忙しいから」と切ろうかと思った。抱えている課題も問題も山積みで、とてもじゃないけれど彼女のコトに気配りできる状態ではなかったのだ。下手に生返事をしても、きっと彼女を怒らせるだけだ。だからこその優しさのつもりだった。が、彼女は前置きも挨拶もなしに、唐突に言ったのだ。
『妊娠したの』
「ああ…そう」
 単純な返事しかできなかった。彼女なりの下手なジョークかと思ったくらいだ。
 シャワーを浴びたばかりで濡れた頭をタオルで拭きながら、オレは「で?」と返した。
『どうしたらいい?』
 彼女も女だったんだな、という不思議な感情を抱いた。「ああ…そう」「で?」という男の反応にキレないのは見事だけれど、他の女同様に、こうして尋ねてくるあたりが。鬱陶しいとまでは思わない。思わないけれども、次に来るのが「責任を取って」とか「こんなはずじゃなかった」という言葉に決まっているから、オレは憂鬱になる。
 非があるのは全部男。仕方がない。いくら避妊しようが、完璧なんてあり得ないんだから。「ごめん」とでも言えばいいのか、それとも「うそだろ?」と驚けばいいのか、オレにはいつだって判断できない。結局涙を見ることになる。
 過去に二度同じ経験をした。片方は嘘で、片方はよくよく調べてみたら相手はオレではないという結果に落ち着いたが、二人ともこれでもかというくらいに泣いていたのを覚えている。
 あの涙を見た瞬間、軽薄で浮気者の男と付き合う方がどうかしてる、と冷たく言ってやりたくなった。
 だけど、彼女は他の女とは違うはずだから。
「どうしたい?」
 仕方なくオレはそう問い返した。嘘ではないのだろうし、他に相手がいるわけでもない。そして「妊娠した」と断定した言い方をしているのだから、きっともう検査済みなのだ。…彼女はそういう女だ。決して男を頼ろうとか、そういう気持ちはない。
 忙しくてカットにいけないまま伸びざらしの前髪から雫が落ちた。
『貴方が決めて』
「じゃあ堕ろせよ」
『そうね。そうするわ』
 じゃあねと一言だけ付け加えて、電話は切れた。
 あっさりしたもんだった。そして異常な程淡泊な決断だった。
 オレがそう言うのを分かっていたのだろうか。今はお互いに医者になる為に忙しい。こんな所でつまずいているワケにはいかない。オレなんかよりも、真面目な彼女は強くそう思っているに違いない。罪悪感はあるにしても…きっとそれ以上の目標が彼女にはある。
 だけど、もうオレ達の関係は終わりかな、と感じた。
 これ以上付き合っていてもぎくしゃくするだけだろう。結局何をどう利用されたのか分からないままだったけれど、お役ご免ということで終わるのだ。
 少しだけ惜しい。
 これ以上の女には出会えないだろうな、という気がした。
 そう、数ヶ月後に彼女の友人から呼び出されるまでは、もう終わったものだとオレは思っていた。