今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第二章vol.6

 学校帰りの檀が透子の見舞いに来るのが日課になった。
 その病室に居辛くて、彼が来ると適当な理由を付けて仕事に戻るのが、オレの日課になった。
「ねーねー、若先生、さっきのが息子さんですよねぇ?」
 たまたま居合わせた看護婦が興味津々といった面持ちで聞いてきた。頭は決して悪くはないのに、馬鹿に見える間の延びた喋り方をするこの女が、オレはあまり好きではなかった。
「ああ。最近毎日律儀にやって来ているようだ」
 オレが、透子の本当の病名を打ち明けた次の日からだ。…少しでも…と、一緒にいる時間を長くしようとしているのだろう。そして透子の策略通りに、透子が何も知らないと思い明るく振る舞っている。そんな健気な姿に、オレはどうしてか苛立ちさえ覚えていた。
 そこまで、純粋でいれる息子に、オレは大人げなく嫉妬していたのだ。
「めちゃくちゃ可愛い少年ですね! 黒髪つやつやさらさらで、まんまるおめめが黒目がちで、おまけにあの制服、すんごい有名進学校じゃないですか! やっぱDNAって凄いなぁとか思っちゃいました」
 ファンになっちゃいましたよ、と騒ぐ彼女に「それはどうも」とだけ返答した。彼の容姿は確かに親の影響を強く受けたものだろう。だが、頭の良さは彼本人の努力によるものだとオレは思う。透子が入院する前は、透子に褒められたいという意識があって彼は懸命に勉強しているのだろうと思っていたが、それはオレの勘違いだった。透子が入院した後…それこそテストの点など誰も構わなくなってしまった後も彼は満点を絶やさない。勉強なんてしなくても、誰にも怒られないだろう環境にいるのに、彼はあの進学校でもトップの成績を守っている。
 心配を掛けまいとしているのだろうか? 
「それにね、一瞬噂になったんですよぅ。奥さん、息子さんが来る時だけ、必ず口紅塗るでしょー? あんまり目立たないけど、血色が良く見えるし……。旦那にも疲れた顔を隠さない女が、どこの誰に見せるカオなんだろうって」
「ああ…それで透子の浮気話が浮上していたのか…」
「わわ、知ってたんですかぁ? 大丈夫ですよ、すーぐ噂なんか消えましたからっ。…こんなラブラブな夫婦なんてないですもんね」
 それは違うと否定したかった。
「竹中さん、先生捕まえてお喋りしてないで、さっさと次の患者さんの所行って」
 その時、詰め所から出てきた古株の婦長に咎められて、竹中は「すいませーん」と軽く謝ると、そそくさとオレの前から姿を消した。
「ごめんなさいね、スオウ先生。教育不足。最近の若い子は何度言っても聞きやしないんだから」
「いいえ。仕事が出来るだけでオレは十分評価しますよ」
 たとえ馬鹿な喋り方をしていても。…でかかった言葉を飲み込むことにオレはなんとか成功した。しかし、婦長は不思議そうな顔でオレを見続けていた。
「何ですか?」
「いいえ。若先生はサイボーグだという噂があってね…。どこかにネジでもついてやしないかしら、と」
「あー…高性能なんでね、そんなモノは見えないようになってるんですよ」
 心の中でオレは透子め、と毒づいた。
「……出来過ぎていて、ちょっと怖いくらいね」
「ああ、息子のことですか? 確かに子供っぽくはないですね」
「貴方のことよ、スオウ先生。まぁ、そういう意味ではよく似ているわね。息子さん」
 婦長はそれだけ言うと、「ちょっと時間が取れるかしら? 竹中さんに叱っておきながらなんなんだけど。コーヒーごちそうするわ」とオレの意見も聞かずに廊下を歩き始めた。
「…私は、貴方が単身院長室に飛び込んで来た時のこともよーく知ってるいるからね、どうもあの子達と同じように、まだまだ若い半人前の医師に思えてしまうの。だから失礼なことを言ったら許してね。もう貴方は日吉病院を担う立派な外科医だって分かってるつもりなんだけど」
「いえ、十分若造ですよ。この病院を担うなんて、本当はとんでもない。婦長ならご存じでしょう? オレは賭けに負けそうなんですから」
「……負けたら、院長は、お孫さんを次期院長に…と考えるでしょうね…。ま、いずれにせよ繋ぎは必要でしょうし、貴方は頑張るしかないのよ」
 オレは今、強敵でも決して負けてはならないと諭されたのだ。
 コーヒー以上に苦い言葉は、知っていても人からは決して言われたくない種類のものだった。
 猫舌の婦長はカップを両手で挟んだまま、さらに言った。
「もう何年前かしら? 檀君が幼稚園の頃? 医者になりたいって言ってたわよね…。『父さんみたいな医者になりたい』って。その夢を潰えさせることのないようにね。父親は、息子にとって、いつまでもヒーローで、手本じゃなきゃいけないんだから」
 突き刺さるような忠告だった。急所を確実に射るのだから、オレは息の仕方も忘れそうだ。
 ヒーローも、手本も、オレには荷が重すぎる。
 反面教師ならば、とオレは笑顔で返しておいた。