今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章vol.4 2005年07月09日


 抗ガン剤の投与は、裏腹に透子の体力をどんどん奪っていくようだった。髪も抜け、食欲が落ち、ひとつひとつの動作が酷く苦痛なようだった。まるで、罰を与えられているかのように思えた。いい加減な生き方をしていたオレに対する罰だ。
 自分自身にではなく、一番大切な者に。そうすることで、オレの苦しみは確かに増した。簡単に神に対して汚い文句を吐ける程度には、運命というどうでもよかったものを怨んでいた。
 それでも利用されると決めたオレは、最後の時まで諦めてはいけなかった。彼女自身が生きたいと願うのならば、オレはその悲しい覚悟にも付き合わねばならなかった。
 そう、生きたいと言ったのだ。透子は。最期まで、生きたいと。
 痛みには耐える。苦しみも平気。だから、1分1秒でも長く家族と供にいたいと…過去の彼女からは想像も付かない執着をみせた。
 そして泣き言を漏らすことは、結局一度もなかった。特に檀の前では、彼女は昔と変わらない賢くて気丈な美人で……強い母親だった。
 檀が生まれる前、檀を生きるために利用しろ、とオレは言った。子供が成長する迄は、簡単には死を想像しなくなるだろうと思ったから。けれど今は、その死を透子は利用しようとしていた。檀が生きるために。そして、きっとそれはオレが生きるために、でもあった。
 潔い判断で、見事な決断だった。

「檀には、私が自分が死ぬことを知っていると思わせたくないの」
「心配させたくないから? 希望を持たせたいから…か?」
「ハズレ。死ぬことは、貴方の口から言って」
 また、意味が分からない。しかも、薬の副作用で食べたものをほとんど吐いた、その直後にする会話とも思えない。脈絡のない会話をさせたら、透子は世界一だと思う。オレは背中をさするのをやめ、彼女の顔をのぞき込んだ。
「檀、頭良いわよね。私達の子だから当然だけど」
「有名進学校の受験を勧められるくらいにはな」
「でも優しく育てちゃったから、ちょっと図太さがね。貴方に似たらよかったんだけど」
「お前、さらっと夫のことを愚弄するなよ…」
「褒め言葉だって。でね、そのたくましさを培うのに、やっぱり悩んだり苦しんだりすることは必要だと思って。蘇枋さんがそうだったから、というんじゃないけど」
 結婚する前だったか、後だったか…オレは透子に自分の出生と幼い頃の思い出を語る機会があった。誰にも打ち明けなかった、暗い過去だ。しかし透子は、それを知って、「ふぅん」と言った。かつてオレが見せたあっけなさと同じくらいの勢いで、興味がないことを明言したのだ。しかも、それだけに止まらなかった。「で、オチは?」と聞いてきたのだ。よくある家族ゴタゴタした関係にオチを求める神経は、さすがとしか言いようがなかったのを覚えている。
「私は、死を勘付いていない馬鹿な母親でいいから。蘇枋さんは、小学生の息子を信頼して真実を打ち明ける立派な父親。ね、この案はどう?」
「死を知らずに健気に病気と闘う強い母親と、その頑張りを無に返すような告白をする冷酷な父親にならないか?」
 別に檀のオレに対する心証をとやかく言うのではない。彼女の案が杜撰なような気がしたからだ。彼女の言うように告白をして、得られるのは息子の困惑。透子は明日すぐ死ぬということはないだろう。だとすれば、死ぬまでの期間を、檀は酷い秘密を抱えて悩むことになる。
「透子が自分が死ぬことを知らないというのはいい。だけど檀に教える必要はないだろう? 「病気に負けないでね」「頑張る」でいいんじゃないのか?」
 たとえ、自分一人が悪役になろうとも。後で酷く罵られようとも、透子は強くて負けない母親でいなくてはならなかった。
「私だったら、教えて欲しいと思って。でも死ぬ本人から伝えられるのは、さすがにどうしたらいいか分からなくなりそうだから。今は気付かなくても、大人になったら分かるわ。父は、小学生の自分に嘘を吐かなかったって、尊敬するようになる」
「長い計画だな……あと十年くらいオレは怨まれたままで過ごしそうだけど…母親に本当のことを教えなかったって言われたらどう対処したらいい?」
「それも大人になったら分かるから。私が気付いていないはずはなかっただろう…って。頭の良い子だから、きっとすぐにでも。「死を知っていたのに、知らないフリをしていた母親と、死を知っていたのに気付かせないように努めていた父親」…ちょっとドラマチック」
「それを画策していた、と知られたらどうする?」
「私の予想では、それはきっとずっと大人になってから。…そうね、この病院で一緒に働いている頃じゃない? でも大丈夫。優しい子に育てたから、許してくれるわよ」
 遠い遠い、未来の展望。「見たかったな」と、また透子は口にした。

 浅はかで弱いオレのせいで、その計画は確実に成功したとは言えなかったけれど、それでも概ね彼女の描いた未来のとおりに事は進んだ。

『助かる可能性はない』
 延命のための手術が決まった時、オレは檀に言った。もう少しだけ、オレの中の歯車は狂い初めていて、その雰囲気を察したのか、檀は変な表情をしていた。まるで下手な嘘を吐かれているかのような…そんな疑いを持った表情だった。
『今度の手術をしても、長くても…あと2ヶ月か、3ヶ月だ』
 畳みかけるように言ったのは、自分自身にも言い聞かせたかったからかもしれない。