今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第2章last volume

 夜の闇は、とてつもなく深い。
 オレは為す術もなく、立ちはだかる黒い壁の前でひれ伏す。
 息もできない程の圧力で、オレを打ちのめし、跡形も残らない程に潰していく。
 そんな夢を、何度も見た。
 決まって汗だくで起きて、心臓が狂ったように鼓動して、吐き気すら覚える目覚を、もう幾度経験しただろう。
 化物に襲われたり、誰かに銃で狙われているとか、そういう類の夢ではないのに、オレは恐怖と緊張とで叫び出しそうになるのだ。
 黒が、暗い闇が、夜が、オレを押しつぶす。
 オレは、執刀などしたくなかった。
 もしも何かあったら…と思ったからじゃない。
 自らの手で、透子の白い肌を割くのが酷い冒涜のような気がして。
 けれど本人からの希望で。オレは今まで生きてきた中で、一番の緊張と、そして後悔を味わっていた。
 限界だったのだと思う。それさえも自分を騙して、気付かない振りをしていたけれど、オレの精神はギリギリの所で保っていた。
 頻繁に見る黒い夢は、その現れだったのかもしれない。
「おはよう、蘇枋さん」
「……ん…寝てた…か」
 久々に夢を見ずに目覚めた。オレは診察の後で透子の部屋に寄り、そして居眠りをしていたらしい。彼女がいるだけで、そこは強烈なバリアに守られているようで、オレの悪夢も身を潜めるらしい。オレ自身もまた、彼女の前では情けない姿を晒さないように寝ている時でさえ気を張っている証拠だろう。
「日吉先生忙しいもんね。それでも倒れたりしないから、看護婦の子達がみんな聞いてくるもの。あの人はサイボーグが何かかって」
「で、何て答えるんだ?」
「多分そうだろうって」
 オレは苦笑しながら、それを言うなら透子だって宇宙人だ、と思う。
「…でも、ほんと、仕事しすぎだから。眠かったら、この部屋来ないできちんと寝る方がいいわよ。顔色、あんまり良くない」
「病人に心配されるとは思わなかった」
「うん。病人に心配されちゃ、医者失格ね」
 そう、もうとっくの昔から、本当は医者失格の烙印を押されてもおかしくない。世界中の人間すべて殺して、もしも透子が助かるなら…オレは間違いなく殺人犯になっているだろうから。人の命を救うはずの医者が、そんな物騒なことを考えているのだ。
 そして、好きな女の一人も救えない自分は、きっと男としても最低だと思う。
 もう、残された時間は僅かでしかない。
 覚悟の出来ている彼女と違い、オレはまだ、少しも現実を直視できないままだ。
 檀ですら、きっと覚悟を決めているだろうに。
 全然だ。
 彼女を失うなんて、想像もつかない。
 病気が進行していくと、きっと死の影も見えるのだろうと楽天的に考えていたのに。オレは意気地なしで…その影を見るのが怖くて、太陽のような彼女の笑顔だけに集中して。
「明日、少しだけ楽しみだったりして…」
「手術が楽しみ?」
「術衣姿の蘇枋さんを見たかったの」
 そう、そんな単純な理由できっと彼女は執刀医を決めたのだろう。滅多に我が儘を言わない彼女が、たまに固執する出来事は決まってオレか檀に関することで。
 眩暈がした。
 彼女の、唯一無二になっている自分の存在が、重くて。
 大切にしろと言われているようで。彼女の大事なものを全て守るつもりで、彼女の側で生きているはずなのに、自分さえもその枠に入っていることを認識させられて、呆然としてしまう。
「檀を産んで良かったと思うの」
 そして、また唐突に話が変わった。
「『死ねないだろ、ざまぁみろ』」
 彼女は真正面から、物真似でもするみたいに言ってみせた。
 懐かしくて、泣けた。そういうことにした。
「そういうことする人間じゃないと思っているけど、一応保険のために言っておこうかと思って。後追いとかしちゃ許さないから」
「するかよ…馬鹿」
 オレを束縛するための呪文を掛けて、オレが残していた甘美な選択を潰した。
 残酷だ。
 透子を怨みそうだった。
 オレは死を望むことすら、出来なくなってしまった。
 オレのすべてだという自覚が、彼女にはないだろうか? 彼女のいない世界に生きる意味などオレにはないのに。もしも自覚があったとしたら、もっと酷い。死んでもなお、利用しようとするのだ。確かに散々まで利用しろとオレは言った。けれど、あんまりじゃないか。
 彼女のいない世界で、彼女のために、どうやって生きろというのだ?
 けれど透子の前では、決して涙など見せてはいけない。そう戒めたのだから、最期までオレは、あの頃と変わらない、飄々とした蘇枋でならなくてはいけない。
 なのに、彼女はまた、思いがけない事を言いだした。
「蘇枋さん、私は貴方のことが好きです」
「……何だ、突然……」
「いや、よく考えたらね、言ったことがなかったな…と思って。好きになりたいと言ったきりだったから」
 微かに頬を赤らめ、彼女はもう一度言った。「大好きです」と。
「貴方は自分のこと、過小評価しているようだけど、私はもう随分昔から、貴方のことが大好きでした。最初はなんてヤツって思ったけどね。貴方は決して私のことを良く言わなかった。馬鹿にさえしてくれた。それが嬉しかったし、病気だって分かっても腫れ物触るように扱うこともなかった。それどころか何度か貶してくれたわよね」
「それだけ聞いてたら、酷い男って罵られてる気がするんだけど?」
「優しいだけが男の美徳じゃないもの。そして、何よりね、私を母親にしてくれた」
「デキちゃった婚だ、病院目当てだと、かなり煩く言われたけどな」
「それでも平然と仕事してるのが、日吉蘇枋って感じで、私は凄くいいなと思っていたの」
 平然としていたわけじゃない。必死だったんだ。認められるためには、外聞なんかにオロオロしていられなかった。今も、だ。まだ賭けの期間は終わってはいない。ただ、前借りという形でオレはこの病院の跡取りという権限を利用させてもらっているに過ぎない。
「じゃあ秘密の告白は終わり。なんだか遺言みたいになっちゃうから、これ以上はどこが好きだとか、どこが愛しいだとか言わない。明日するのはただの手術だもんね。また死ぬ前にでも言ってあげる。その鉄面皮が照れちゃうくらいの甘い告白」
 オレは「楽しみにしてるよ」と言った。
 けれど、手術は失敗に終わった。
 オレが照れてしまう程の甘い告白は聞けぬまま、
 そして一度も好きだと伝えられないまま、オレは彼女を失った。
 
 それからのことは、あまり覚えていない。
 オレはマトモなオレであることを、完全に放棄した。