今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第二章vol.5

 オレは子供が嫌いだ。特に、頭の良い子が。
 いや、嫌いというよりは苦手だ。…険悪な程に。
 馬鹿な子ならばいい。聞き分けがない子供ならば尻を叩いて、叱ってやればいいのだから。無邪気な子供ならば頭を撫でて褒めてやればいいのだから。一喜一憂させるのなんて簡単だ。なのに、聡い子はそうはいかない。時に彼らは、大人よりもずっと大人で、思いも寄らない行動を取り、言葉を吐く。そして、子供じみた夢想家に化しているオレのような男をまるで呆れるかのように見つめるのだ。
 苦手以外の何者でもない。
 小児科だけは選ばなかったオレの、本当の理由はそんな所にあった。
 そして、幸か不幸か、自分の息子は間違いなくその手の子供へと変貌を遂げていた。透子の教育の賜と言うべきか、それとも透子の病気の影響というのか。
 透子が家にいる時は良かった。オレは透子を介して彼と話をすればよかったのだから。逃げだと言われても、彼と面と向かう自信などありはしなかった。
 聞き分けが良く、おとなしく、真面目な息子は、どこか恐ろしくもあった。
 その瞳が、オレを映すだけで、オレは詰られているような気分に陥るのだ。
『僕なんかいらないんでしょう?』…と…言われている気がしてならない。
 そして、それは昔の自分と対面しているようで、酷く居心地が悪いことだった。
(別に、虐待やなんだと言うつもりはないけどな…)
 ニグレクト。育児放棄
 完全な無視は、ただひたすらな孤独を生む。
 そして、優しくされたことのない孤独な子供は、大人になり、親となり、子供との接し方が分からないつまらない人間になっていたのだ。
 それを悲観する気も、責任転嫁する気もない。ただ、事実だから。
 けれど自分に対する責任は、それなりにわきまえているつもりだ。
 檀を産めと言ったのはオレだから。オレは父親としてできる限りのことをしなければならない。たとえ自分が愛されない子供だったとしても。
 コホコホと軽いセキを繰り返す檀に見送られ、オレはその朝病院に向かった。今日は家に帰れそうにはない。透子は入院中。…檀は一人だ。
「…お義姉さん? 蘇枋です。…すいません、今日檀のことよろしくお願いします。風邪気味なようで…学校には行くと言ったので行かせましたが」
『じゃあ家に行った方が良いかしら? 一人じゃ心細いでしょうし…』
「ええ、お願いします。だけど『伯母さんに言わなくてもいい』と言われましたし…偶然を装って頂けるといいんですけど」
『…良い子ね、檀は。だけどもう少し甘えてもいいのに、と思うわ』
 兄嫁の北岡原静流は、血のつながらないオレや、オレの家族のこを気に掛けてくれる数少ない人間の一人だった。
 母が再婚したのは、オレが高校に入ってから。その時できた義理の兄が広葉だった。といっても、彼はすでに北岡原家に婿入りしており、ほとんど顔を合わすこともなかった。オレはオレで一人で生きていたし、家族と呼べるものなどないと思っていた。オレとも十歳ほど年の離れた兄は、あの頃…無駄に生きているだけだったオレのことをどう思っていただろう。今でも、怖くてそれは聞けない。
 ただ、檀が産まれたことで、関係は変わった。日吉家は大病院を所有する割に、親族が少ない。透子は一人っ子だし、檀にとっての祖父である人は忙しすぎる。オレも同等に、だ。自然と檀の面倒は彼等が見るようになっていった。施設にお願いするくらいなら私達が…と名乗り出てくれたのだ。子供のいない兄夫婦にとって、檀は……たとえ経緯はどうあれ、息子同然の存在だったのだろう。
 けれど、そんな息子は決して甘えた事を口にしない、小学生にしては奇妙なまでに気の配り方を知っている。
“迷惑にならないように”
 それが彼の行動原理なのだとしたら、それはとても淋しいことなのだろう。
 ふと見上げた空は曇天。
 凍えた冬の重さは嫌いだ。
 どうせ一人なら、全てが透き通る、夏の、あの日差しが良い。
『檀は熱があるようで、早退して来ました。かたくなに居なくていいと言うので私は一旦帰ります。一度家に戻れるようなら戻って看てあげて下さい』
 義姉からオレ充てにそう電話があったそうだ。大手術を終えたばかりで、オレは疲れ果てていた。家になど帰る暇も気力もない。
(もしも本当に具合が悪かったら電話でもなんでもするさ…)
 そう思って仮眠室のベッドに倒れこんだ時、来客があった。
「蘇枋さん!! 雪降ってきたわよ」
 素足に、パジャマ姿のままで入院患者が言う台詞ではない。そして医局にまで入ってくるな、という話だ。
 オレは透子の調子が悪くないことだけを見て(後は無視することにして)、そのまま意識を手放そうとした…が、
「何寝ようとしてんの?! 貴方はとっとと家に帰る!! 雪が降ってるんだから!」
「透子……疲れがピークで、ちょっと会話がいつも以上につながらないんだが?」
「雪の日なんかに檀を一人で残すの禁止。…雪が降ったら静かで淋しいじゃない。たとえ、貴方みたいな仏頂面でもいた方がマシ」
「ええっと……帰れってこと? それとも、疲れた顔を整形でもしたらという話?」
「前者」
 透子は装着したままの手首の点滴針の存在に構いもせず、オレをぐいと起きあがらせると、コートを押しつけてきた。詰め所にいる看護婦か医者が妙な気を利かせたのだろう。
「帰らないと死ぬわよ」
 私が…と。透子は嫌な脅し文句を覚えてしまった。オレの弱みにつけ込んでの言動はタチが悪い。そして、本当に自殺でもやりかねない女だから始末におけない。
「貴方が子供嫌いでもねぇ、檀は貴方のことが好きなんだから仕方ないでしょ?」
 挙げ句の果て、そんな文句まで用意して。オレの降参という言葉を聞きたがるのだ。
 キンと張りつめた空気は、手術室を思い出させる。今もまだ仕事をしているような錯覚に見まわれながら、オレはなんとか家にたどり着いた。
 雪は、十時を越える頃には一層強さを増していた。街灯は優しく雪を照らし、そしてその白は引き寄せられるように地面に消える。檀は、ずっとこの様子を見ていたのだろうか。
 見上げた窓。微かに開いたその隙間から漏れる光が、彼の寂しさと強さを一緒くたに表しているようだった。
「あ…おかえりなさい…」
 鼻声で、頬を紅くして、檀はオレを出迎えた。
 目が潤み、足許もおぼつかない。熱が上がってきているのだろう。
 こんなことなら、義姉に無理矢理でもいてくれと頼むのだった、と後悔した。
「あっ…父さんっ……今日……」
「檀」
 オレは何かを言おうとする檀を止めた。体が弱いわけではないが、檀は気管支が弱く、風邪をこじらせるときまって酷い声になり熱が続くのだ。似なくてもいい所ばかり、似てくる。
「疲れてるから、話はまた今度にしてくれ。風邪引いているんなら薬飲んで早く寝ろ」
 そこに、悲しそうに潤んでいる息子の目を見ても、そんなことしか言えない自分にもどかしさを感じるしかない。
 ああ、まただ、と思った。また檀を遠ざけるようなセリフを吐いた。
 どうして大人に対するように上っ面だけでも優しい言葉を選べないのか。
(見抜かれるのが怖いんだ…)
“優しい嘘なんかいらない”………そう言い放った自分の過去があるからこそ。
 少しの仮眠を取って、オレはまた病院に戻った。医局からかっぱらってきておいた風邪薬は、机の上に置いておいた。