今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.6〜

 一週間母親が帰ってこないことがあった。
 あれは小学校に上がる前の年か…ひょっとしたらもう少し幼かった頃かもしれない。
 記憶は定かではないが、カギを自分で開けて家に入れるくらいの知識はあったし、蛇口を捻れば水が出て、物を買うにはお金が必要だということもちゃんと認識していた。
 今となって考えれば、幼い子を一人家に残すということは相当な虐待で、ワイドショーが飛びつきそうなニュースではあるが、明るみに出なければ、それは虐待とは分かって貰えない。泣き声が酷いだとか、いつも怒鳴り声がするだとか、そういった兆候がなければ、都会の隣近所に住む人間なんてそう関心を持たないものだ。
 オレは頭が良かったし、巧妙だったから、きっと周りの大人は気付いていなかっただろう。
 洗濯機の回し方は分からなかったし、風呂の張り方も確か分からなかったはずだが、服はそれなりにあったし、シャワーの使い方は分かっていたので身だしなみはそんなに悪くなかったはずだ。
 給食をたくさん食べて、夜はスーパーで買ったパンを食べた。
 これが、何ヶ月かに及んだら、きっと世間で問題になっていただろうが、きまって母親は置いてくれていたお金がなくなった頃に帰ってきた。
 “やっぱり私には蘇枋だけよ”……そんな薄っぺらい言葉を用意して。
 そして、何ヶ月か母親らしいことをして、またそれに飽きたみたいに出てゆくのだ。
 化粧をして着飾って、別人になって、彼女はオレとの関係を絶つ。
 その繰り返し。


 あんまり母親の顔を覚えていないと言うと、透子はおそろいだと言った。
 夫と幼い娘を大事にし突然の事故に亡くなった母親と、育児放棄のあげく別の男と結婚して出て行った母親と、まるで出所は違うのに「おそろい」と一言で片付ける。
 そのセンスの良さは好きだったし、同情も困惑もしない頭の良さには救われた。
 ただ、同じ轍は踏ませたくないと思ったのだろう。
 檀に、ではなく。オレに。

 オレは透子の設定では、立派な父親でなければならなかった。
 だから、透子は口を開けば「帰れ」と言った。自分の所よりも息子の所に行けと言うのだ。


 普通に食器を洗っている小学生の息子を見て、申し訳なさよりもいらだちが先行した。
 自分の姿を見た気がした。
「……ひょっとして、自分で料理を?」
 “ただいま”の前に、その言葉が出た。
「あ……火には気をつけてるし……」
 怒られるとでも思ったのだろうか。檀はびくびくとオレを見上げていた。
「悪い、そういう時は連絡してくれたら……」
 どうせ出られない。檀は分かっているのだ。子どもは大人が思っているよりもずっと聡く、気遣いをする。
 特に、檀は頭が良すぎる。理解が良すぎる。
 母親は入院中、父親は優秀な外科医で、手術が立て込むと数日は家に帰れない。家政婦のような人間は来るが、あくまでもそれはビジネスライクな他人だ。
 せめてもの救いは、オレがマトモに働いていることだろうとは思うが、それは大人の勝手な言い分にしかならない。
 透子によれば、立派な親でもいなければ「おそろい」なのだから。
「料理は、佐原さんから?」
 ハウスキーパー兼子守として家に来てもらっている女性の名前を挙げると、檀はふるふると首を振った。
「お母さんに教えてもらってる。たまにお見舞いに行く時とか、あとは電話で」
 透子の思惑は見えた気がした。
「掃除や洗濯なんかまで?」
「まだあんまり上手くできないけど…」
 オレを家に帰らせるための策略なのだ。
 見てくれる人がいるなら大丈夫だというオレのちょっとした甘えを、透子は覆そうとしている。ゆくゆくは佐原さんを断るつもりに違いない。なんなら檀には「忙しいお父さんのお手伝いしてあげよう」とまで言っているかもしれない。オレがそれを見守らなければいけない場を設定するために。
 オレが母親を諦めたようには、檀には諦めさせたくない。
 そして、透子は諦めさせないための努力をオレに強いる。

「今度、お母さんから教わった料理をお父さんにも教えてくれ」

 ただそれだけの言葉に嬉しそうにする息子に、胸が痛んだ。
 落第の印を押されるにはまだ早いのだと分かった。