今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語第三章vol.3〜

 全てを遠ざけて、狂ってしまったオレがそれでも最低限の食事を欠かさなかったのはすべて透子の教育のなせる技だと思う。



 あれは、まだ檀が生まれる前だ。

 研修から疲れて帰ってきたオレを待っていたのは、透子が作った温かな夕食だった。母親を早くに亡くしていた透子は一通りの家事を平然とこなしていた。特にそれを褒め称えるようなことはしなかったが、命じたわけでもなくやってくれることに感謝はしていた。

 派手なものではなく、どこにでもあるような、誰でも作れるようなそんな家庭料理だったけれど、そんなものを出された記憶さえないオレには目新しかった。そして、ありがたいと思うことはあっても、決して文句など言ったことはなかった。

 そのはずだったのに、透子は箸を進めるオレに真剣な顔で「むかつく」と言ってきたのだ。



「蘇枋さん…大学時代から思ってたけど、蘇枋さんって食事に無頓着よね」

「……無頓着?」

「別に、時間通りに三食食べなさいとか、好き嫌いしないでとか言ってるわけじゃないけど」

 そう言いつつ、オレが密かに避けていたサラダのトマトを取り皿に取って渡してきた。

「大人だし、不規則な仕事だし、食欲がない時だってある。それを加味したとしても、ちょっとむかつくかな、と」

 まただ。また、意味が分からない。そういう時は素直に聞くに限る。勘だけで判断すると会話が成立しなくなるというのは同居しはじめてすぐに気付いた。

「ええっと、透子さん、理由を教えてもらえますか? 食事を作ってくれるのはありがたいと思ってるよ。毎日大変だろうな、とも。それに、妊婦なんだから体が辛かったら休んだらいいと思うし。帰って何もないとかいう状態でも別にはオレはなんとも……」

「そこーっ!!」

 大きな声に、思わずびくっとしてしまった。

 おいおい、唐突に叫ぶなよ。腹の子もびっくりするだろうに…。

「何もないという状況に慣れすぎていて腹が立つ」

「透子、まだ分からないんだけど? もっと食べ物に感謝の気持ちを持ちなさいってこと?」

「違うわよ。もっとワガママになれって言うの。別に味の感想を求めているわけじゃないのよ? だけど、あんまり蘇枋さん「美味い」も「不味い」も言わないから。最初は気を遣ってくれてるのかと思ったけど、そうじゃないのよね。蘇枋さんて、食べられたら何でもいいって思ってるでしょ? だから、感想なんてないんだわ」

 図星だった。

 もちろん、透子の作る料理は美味いのだろう。不味かったらさすがに食べない。だが、透子がたとえ料理をしない人間でもまったく問題はなかった。外で食べても、何か買って来ても、栄養補給さえ出来たら…と思っていたのは事実だ。だから、嬉しいと思うよりも、こんなオレに食事を…と申し訳ない気分の方が勝っていた。

「食事は楽しいもの。オーケー?」

「楽しいもの…」

「オーケー?」

「あ…ああ、オーケー」

 答えを強要された。そうか、透子にとって食事は楽しいものなのか。なら、大学時代はその楽しい時間をことごとく邪魔していたわけだ。嫌われている時に付きまとったことを今更ながら謝る気分になった。

 だが、透子はそんな後悔の念を見越してか、にっこり笑って「よし」と言った。

「折角妻になったからには、『おい、お前、この味付けはないだろう!!』とか言われるの期待してんだから」

「…そんなもん期待するなよ」

「『こんなもん食えるかー!!』て卓袱台ひっくり返すまでは求めてないから安心して」

 実は、透子なりの気の使い方なのだと思う。

 オレは幼い頃から虐待されていて、家族と食卓を囲んだことがない。それを透子は同情したりしない。ただ、一人に慣れるのが間違っていると教えてくれているのだ。食事だけじゃなくて、色んなことで透子はオレの今までの価値観を変えてくれる。

「もっと、アレが好きとかコレが苦手とか言っていいんだよ? 他人じゃないんだから。手始めに、さあドウゾ?」

 ちらっと透子が赤い野菜に目をやる。知ってるくせに。

「……生のトマトが実は苦手です。無理矢理なら食べられるけど。できるなら勘弁して頂きたい」

「了解。あー楽しいなぁ。食育ってこういうのだよね」

「違うと思う」



 そうして透子の食育を施され続けた結果、疲れていても栄養補給という意味合いだけの食事は取らなくなったんだ。



 ただ、壊れてからの食事はどうしたって楽しいモノではなかったけれど。