今また同じ風が吹く〜日吉蘇枋のための物語〜第二章vol.8

 義兄である北岡原夫妻が住んでいるのは、見事としか言いようのない田舎だった。バスは二時間に一本。車がないと生活さえままならない。山に囲まれたその村は、行き場のない未来しか待っていない雰囲気だった。村人の平均年齢を聞いたら、きっとオレは卒倒していただろう。超高齢化社会と言わんばかりの老人の多さと、子供の少なさ。電気や下水がきちんと通っているだけで、これほどありがたいと感じたことはなかった。
 義兄は、公務員で数年前にこの地に配属されたのだ。
 都会生活しかしたことのない彼にここでの生活は不便だろうと思ったが、聞いてみると、昔から田舎暮らしがしたかったのだと言う。畑を耕し、真っ暗な夜に星空を見上げるような毎日が良いのだ、と目を細めて満足げに言うものだから、オレはそんなものなのかと感心した。
「夏にでも一度檀を連れてくればいい。山だから海水浴とはいかないが、虫採りでも、川遊びでも、なんでもできる」
 都会育ちの檀が、馴染むとは思わなかった。
 そして、いずれこの地で彼が住むことになろうとも、その時は想像していなかった。
 ただ、夏休み中の面倒を見なくて済むならありがたい。…そんな軽い気持ちで、オレは檀をその村に行かせたのだ。
 過ぎゆく風にさえ、色がついていそうな爽やかさだった。
 例えるなら、緑。そして青。
 木のニオイが濃厚で、街の雑踏に揉まれたオレが場違いだと感じた。濃密な夏の空気に、オレは車を降り立った瞬間に眩暈を覚えた程だ。
 蝉の声が煩い。日差しが眩しい。
 自分の不健康さをちくりちくりと指摘するような、自然。
「おとうさーんっ!!」
 遙か遠く…川の橋の上から手を振る息子の姿に、オレは面食らった。
 檀は、そんな大きな声の出せる子だっただろうか。
「あのねぇ、川で鮎釣ったの。椋さんと、椋さんのお父さんと。おじさんがね、昼はこれで食べましょうって!!」
 そして近づいて来た彼の姿を見て、オレはまた咎められたような気持ちに誘われた。
 彼は、こんなに大きかっただろうか。
「子供の夏は大きいわよ? すぐに成長するの。どう、びっくりしたでしょう?」
 義姉は助手席から降りると、自慢げに言ってみせた。オレの道案内をすると、わざわざ途中まで迎えに来てくれていたのだが、車中で彼女が語っていた生き生きした息子の姿には半信半疑だった。けれど、彼の真っ黒に日焼けした顔を見ると、それが真実なのだと思い知った。
「友達も出来たんだから」
「友達……」
「…残念ながら、人数が少ないんだけどね。近所の上々手さんの所と、お寺の中河原さんの所と。昨日もお泊まりしてたわよ。本当はもう一人、女の子がいるんだけど、逆にその子は両親に連れられて東京の方に行ってるから…会えなくて残念ね」
 二人でも、オレには十分に驚きだった。
 いつも一人でいる子というイメージがあった。友達がいないわけではなかったのだろう。しかし、都会では外で遊ぶ子供などいない。家に連れて来たことがあっても、ほとんど家にいないオレが知るはずもない。…いや、それでもきっと友達となれ合うことなどないだろう。クラスメイト達はみんな塾や習い事で忙しいのだと透子から聞いたことがある。
 だから、オレが知る檀は、いつも一人で本を読んでいるイメージだ。
 魚を素手て掴んで、擦り傷もそのままに走り回る彼は…見たことがなかった。
「…お父さん、お母さんは、大丈夫?」
「毎日電話してるんだろう? お前の方がきっと具合をよく知ってると思うぞ」
「だって僕はお医者さんじゃないもの。お父さんから見て、元気なの?」
「ああ……でも夏は暑くて嫌だって。できるなら、檀と一緒にこっちで過ごしたいと言ってた」
「ホント?! じゃ、来年は絶対!!」
 オレはまだ、檀に本当のことを話せずにいた。
 来年は、きっとない。
「宿題も全部終わらせたし。帰って、おじいちゃんにも自慢するんだ。セミの抜け殻とね、僕が育てたあさがおのタネとね…」
「ね、檀、お母さんにお土産もあるんでしょう?」
「それはないしょー!!」
 彼の無邪気さに、オレは行き場を失っていた彼のストレスを今更ながらに感じとった。彼は、我慢していたに違いない。子供であることを。
 そして、早急に大人になろうとしているのだ。
 子供は嫌いだった。
 ただ、そんな子供に対して無意識に大人になることを強要している自分は、もっと嫌いだと思った。