怪奇譚シリーズEX「月の醒める時5」

 兄が虫垂炎で入院することになった。身内が病院内にいるのはなんだか気恥ずかしいものがある。母や義姉は、私のいる病院なら一安心だと言っているらしいが、わざわざ2人揃って担当医師に挨拶しに行くのはどうかと思う。
 その相手は、幸か不幸か、彼。

 私が詰め所に戻ると、彼はコーヒーを飲みながら学会の資料を整理している所だった。おもむろに声を掛けられる。
「いいご家族ですね」
「ちょっと大袈裟なんです」
 身内の恥。兄のことだけでなく、私のことまで話しているのが聞こえていた。
「仲がいいんですね」
「……でも、口を開けば結婚はまだかー、恋人はいないのかー…ですよ?」
「羨ましい」
 あ、と思った。
 実は私は知っていた。私の親友(自称)が一時せっせと彼に対する情報を集めていたんだ。彼の両親は亡くなっている。妹も。
 噂に過ぎないから真に受けているわけではないが、彼が高校生の頃…というのだから今から20年も前、両親は強盗に押し入られて殺された…と聞いた。妹はそれを苦に自殺したのだ、と。彼は、その場にいたらしい。
 そんな小説だかドラマみたいなことが現実であるわけないよ、と話を聞いた時は言っていたが、今ならなんとなく本当じゃないかと思える。
 そんなことがあれば、まともな精神状態でいられないだろう。それがこの人のオカシイ部分を形作っているなら、それは哀しいことだ。
 あまり触れられてほしくない話題に違いないと踏んで、私があわてて話を変えようとした時、彼は遠慮なく話を続けた。
「きっと、いくつになっても兄というのは妹が心配なんですよ。刷り込みっていうやつかもしれない。今日からお兄ちゃんよって母親に呪文を掛けられるんです。「妹を守れ」って。……兄貴はきっと妹が生まれた瞬間から、妹の幸せを見守る義務を持ってる」
 その義務を果たせなかったんですか? …そう、聞くのはあまりに失礼だろう。
「じゃあ妹は逆ですよね。兄が兄らしくいられるように、しっかりしなくちゃ」
 私がそう言うと、彼はじっと私の瞳を見つめてきた。
 吸い込まれそうな、深い色の瞳が数秒間……まるで品定めをするように……
 そして、笑うのだ。
「……妹は、ぼんやりしていたオレを叱りつけてくれましたよ。朝食の目玉焼きにジャムを塗りつけたオレを……」
「よっぽど寝ぼけてたんですね…。今の先生から想像できないんですけど」
「あんまり朝は得意じゃなかったんです。いや、妹に甘えていたんだろうな…。起こしてくれるから。妹は、なんだかんだ言ってオレに甘かった」
 もう、いないのだ。強盗とか自殺が本当でないとしても、いないのは本当なのだ。
 寂しさが伝わってきた。
 この人は、私の兄のように、妹の心配をしたり、自分の心配をされたり…そんな当たり前のことができなくなったんだ。病気の時に頼ったり、頼られたり。そんなことができないんだ。
「………先生、はやく結婚したらどうですか?」
 妹さんは、きっとそう言うだろう。代わりに、私なんかが言っていい言葉じゃないけれど、彼が満足そうに口元をゆるめたので、私はほっと胸をなで下ろした。